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「定書」について

江戸時代の学校の規則「定書」について

懐徳堂学舎や学寮におけるきまり、開講の通知などを記した「定書」についてご紹介します。(参考:懐徳堂事典)

定書(さだめがき)

「定書(さだめがき)」とは、懐徳堂学舎や学寮におけるきまり、開講の通知などを記したもので、講堂・学寮などに掲示されました。代表的な定書としては、「宝暦八年(1758)定書」全三条、「安永六年(1777)正月定書」全一条、「安永七年(1778)六月定書」全八条などがあり、これらの規定から、懐徳堂では、学費・聴講・身分の上下などについて、当時としてはかなり自由な精神で臨んでいたことがわかります。
これにちなみ、このHPでは、記念会の掲示板を「記念会定書」と命名し、最新情報や関連グッズについてお伝えするとともに、みなさまからお寄せいただいた御意見・御感想・コラムなどを掲載していきます。

宝暦八年定(ほうれきはちねんさだめ)全三条

懐徳堂に寄宿していた学生を対象として学寮に掲示された定書。宝暦8年(1758)、懐徳堂二代目学主中井甃庵の死去に伴い、三宅春楼が学主に、中井竹山が預り人に就任した際、制定された。懐徳堂の基本精神を端的に表明するものであり、安永7年(1778)の定とともに最も代表的な規定の一つである。全文は次の通り。
  • 一、書生の交りは、貴賤貧富を論ぜす、同輩と為すべき事
    但し、大人小子の辨は、之有るべく候。座席等は、新旧長幼、学術の浅深を以て面々推譲致さるべく候。

  • 一、寄宿の書生、私の他出一切無用為るべき事。
     但し、拠る無きの要用、或は其の宿先より断り之有る節は、格別と為すべく候。

  • 一、寄宿の書生、講筵の謝儀は、十五歳より差し出さるべき事。
     但し、小児迄も講筵列座は勿論の義に候。
第一条は、懐徳堂の書生間の交わりについて、貴賤貧富を問わず同輩とすべきこととする。ただし、大人と子供の区別はあり、また、座席については、新旧(新参か古参か)、長幼、学問の進度などを指標として、互いに譲り合うこととしている。

第二条は、寄宿生について、私事による外出は認めないとする。ただし、やむを得ぬ用事やその宿先(勤務先・実家など)から断りがあった場合は例外としている。

第三条は、同じく寄宿生について、その謝礼は15歳から納めることと規定する。

安永六年正月定書(あんえいろくねんしょうがつさだめがき)一条

「安永六年(1777)丁酉正月 学校行司」の署名が見える。冒頭の「三八」は貼紙の上に記されており、訂正された可能性がある。受講の謝礼について、先の規定を補足する内容。
  • 三八夜講、二七朝講、定式講筵の謝儀、近来混雑に相成り候。

  • 已に来たる者、先規の通り別段に講堂へ御納め成らるべく候。

  • 尤も御出席の印を表され候のみにて候。新来の御衆中、普く御承知のため斯くの如く候。

以上。

安永七年六月定(あんえいしちねんろくがつさだめ)全八条

懐徳堂内に寄宿していた書生の生活態度について、中井竹山が定めた最も代表的な規定。全八条。『懐徳』11号の中井木菟麻呂(つぐまろ)「懐徳堂遺物寄進の記」中に「懐徳堂壁署三面」の一つとして翻刻されており、その中で木菟麻呂は、「学校預り人(中井)桐園が毎休日の朝、寄宿生を講堂に集めて、読み聴かせられるのがきまりであった」と述べている。
  • 第一条は、書生の面々互いに申し合わせて行儀を守り、かりそめにも箕踞(ききょ)(足を投げ出して座る)・偃臥(えんが)(ごろんとよこになる)などしてはならないとする。

  • 第二条は、学問に関する談義や典雅な話題の他は、無益の雑談を慎み、場所柄をわきまえ、卑俗な談義は堅く停止と規定する。

  • 第三条は、病気でもないのに、みだりに昼寝・宵寝をしてはならないとする。

  • 第四条は、学業の余暇には、習字・算術・試作・訳文など、各々に応じて心懸けることを説く。

  • 第五条は、休日やその他の余暇には、和訳の軍書や近代の記録物などを心懸けてよむべきこととする。

  • 第六条は、囲碁や将棋などは社交のため、また気分転換のためならば差し支えはないが、休日以外は日中そのような雑芸に関わってはならないとする。

  • 第七条は、互いに行き届かないことについては、同輩が互いに心をつかい、切磋することとするが、それが行き過ぎてトラブルになった場合には、第八条で、早々にその旨を申し出ることとしている
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