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懐徳堂の歴史

大阪文化形成に大きく貢献した懐徳堂。その発展の歴史をかいつまんで解説します。(参考『懐徳堂事典』)

懐徳堂の「誕生」

日本にまだ組織的・体系的な「学校」が少なかったころ、大坂では、五井持軒(ごいじけん)の漢学塾や平野郷の含翠堂(がんすいどう)など、好学と自治の風を伝える学校が存在し、大坂の学問的基盤を形成していました。
こうした前史をうけ、享保9年(1724)、大坂の有力町人「五同志」は、中井甃庵とはかり、三宅石庵(みやけせきあん)を招いて、学問所「懐徳堂」を創設しました。
享保11年(1726)には、中井甃庵らの奔走により、江戸幕府の官許を得、大坂学問所として公認されました。学舎も、隣接する校地を下賜され、間口十一間(約20メートル)、奥行二十間(約36メートル)の規模に拡大されました。ただ、大坂の五人の有力町人「五同志」を中心とする運営はその後も懐徳堂の基本となり、言わば半官半民の体制が継続されることとなります。

[初期懐徳堂]

初代学主として迎えられた三宅石庵(みやけせきあん)、初代預り人で後に二代目学主に就任した中井甃庵(なかいしゅうあん)、助教として石庵・甃庵を支えた五井蘭洲(ごいらんしゅう)らによって初期懐徳堂の体制が整えられました。初め、懐徳堂は「学主」「預り人」「支配人」の三本柱を軸に同志会がそれを支える構造となっていましたが、中井甃庵が預り人に就任してからは、「学主」と「預り人」が学務・校務の最高責任者として運営に当たることとなりました。

懐徳堂の[経営と教育]

懐徳堂は、大坂の五人の有力町人の出資によって創設され、以後も五同志を中心とする同志会の醵金やその運用利益によって経営されました。また、学則に相当する定書(さだめがき)・定約(ていやく)類からは、学費・聴講・席次などについて、身分制の当時としてはかなり自由な精神で臨んでいたことが分かります。受講生の謝礼(受講料)は、五節句ごとに銀一匁(もんめ)または二匁ずつ、また、貧苦の者は「紙一折、筆一対」でもよいという緩やかなものでした。
懐徳堂教育の在り方を示す代表的な定書「宝暦八年(1758)定書」には、「書生の交りは、貴賤貧富を論ぜず、同輩と為すべき事」という著名な規定が見えます。総じて、学校側からの高圧的な規定と言うよりは、学生相互の自律・自助を勧める内容となっています。

懐徳堂の[学問]

懐徳堂の学問は、朱子学を基本としながらも諸学の長所を柔軟に取り入れる点に特色がありました。初代学主三宅石庵の雑学的傾向は「鵺(ぬえ)学問」と批判されることもありましたが、そうした折衷的傾向は、良い意味で、懐徳堂の自由で批判精神にみちた学風を形成していったのです。中でも、五井蘭洲・中井竹山らによる学問の先鋭化は、寛政異学の禁という日本史的状況とも相まって、懐徳堂の名を全国に知らしめました。
また、懐徳堂の歴史を通して注目される具体的な特色として、朱子学的な道徳の重視とその柔軟な運用、『中庸(ちゅうよう)』の錯簡(さっかん)について独創的な見解を提示した『中庸錯簡説』、親孝行につとめる孝子を見出して高く評価する孝子顕彰運動、荻生徂徠(おぎゅうそらい)の古文辞(こぶんじ)学に対する厳しい批判、迷信や鬼神の存在を否定する合理的な思考、漢文訓読に独特の方法を提示した懐徳堂点などがあげられます。さらには、懐徳堂出身の町人学者として、富永仲基・山片蟠桃・草間直方など、時代を先駆ける異才を生み出した点も注目されます。

懐徳堂の[周辺]

懐徳堂で講じられていたのは、朱子学を中心とする中国の思想でした。それは、現実を離れた机上の空論ではなく、具体的な経世に主眼を置くものであったため、懐徳堂学派の活動も、時の政治と密接な関係を持つこととなりました。
特に、懐徳堂の完全官学化を目指した中井竹山は、老中松平定信との会見の機会を得て、その経世策を具申するという大役を果たしました。『草茅危言(そうぼうきげん)』と名づけられた竹山の経世策は、寛政の改革に大きな影響を与えたとされます。また、懐徳堂学派の歴史観は、『大日本史』の筆写や中井履軒の『通語』に見られる通り、明確な正閏論(大義名分論)として表明されました。さらには、朝鮮通信使やロシア軍艦ディアナ号との関係など、懐徳堂は日本の政治的動向と深く関わりながら、その歴史を刻んでいったのです。

[知のネットワーク]

懐徳堂は、知のネットワークの拠点でした。輩出した門下生、交流のあった知識人は数多く、中でも、片山北海の混沌社(こんとんしゃ)との関わりは親密でした。また、その混沌社を通じて親交を持った頼春水・頼山陽の父子、柴野栗山(しばのりつざん)・尾藤二洲(びとうじしゅう)・古賀精里(こがせいり)の寛政の三博士、画家の蔀関月(しとみかんげつ)・中井藍江(なかいらんこう)・谷文晁(たにぶんちょう)、中井家の出身地である龍野(たつの)藩の儒臣たち、寛政三奇人の一人高山彦九朗(たかやまひこくろう)、随筆『胆大小心録(たんだいしょうしんろく)』で懐徳堂を紹介した上田秋成、天文学・医学面で中井履軒と交流した麻田剛立(あさだごうりゅう)など、懐徳堂の交友関係は「漢学」「儒学」の枠を越えて全国に広がっています。
また、懐徳堂に学んだ門下生には、後にその近代的英知が高く評価された山片蟠桃、富永仲基、草間直方の他、孝子として顕彰された稲垣子華(いながきしか)、『近世叢語』『続近世叢語』などを著した角田九華(つのだきゅうか)、履軒の自筆稿本の整理・筆写に努めた早野橘隧(はやのきっすい)、三村崑山(みむらこんざん)、竹島簣山(たけしまきざん)、後に新見藩の藩校至誠館に学頭として迎えられた丸川松陰(まるかわしょういん)など、日本の近世から近代における学術史に足跡を残す人材が輩出しています。
こうした懐徳堂の評判は、当時の人々に大きな印象を与え、『浪華学者評判記』『浪華風流月旦』『先哲叢談』などの評判記・伝記類に取り上げられています。

懐徳堂の[終焉]

中井履軒が懐徳堂を離れて開いた私塾水哉館(すいさいかん)は、履軒の子柚園(ゆえん)に引き継がれたものの、柚園の死とともに閉じられました。また懐徳堂も、幕末維新の動乱により、明治2年(1869)、百四十余年の歴史を閉じました。懐徳堂の掉尾(とうび)を飾ったのは、懐徳堂最後の教授並河寒泉(なみかわかんせん)と最後の預り人中井桐園(とうえん)です。
並河寒泉は、中井竹山の外孫で、門人を武士役人層にまで広げ、大坂町奉行に懐徳堂の援助を願い出るなど、懐徳堂の経営・維持に努め、さらに文庫の建築、『逸史』の上梓などの事業を推進しました。また中井柚園の子で、碩果の養子となった桐園は、蔵書や備品類を売却するなどして、懐徳堂および並河・中井両家を財政面で支えました。しかしかれらの努力もむなしく、懐徳堂はついに閉校を迎えます。明治維新は新たな体制と文化を生み出す一方、旧来の伝統的文化の継承に深刻な打撃を与えることとなったのです。
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