本文へ移動

関連人物

懐徳堂は大阪の文化・経済に関わるたくさんの人物を輩出しました。ここでは主立った人物をご紹介します。
(参考『懐徳堂事典』)

三宅石庵(みやけせきあん)(生1665~没1730)

懐徳堂初代学主。名は正名(まさな)、字は実父(じっぷ)、通称は新次郎(しんじろう)、号は石庵、または万年(まんねん)。宅子(たくし)と尊称されることもある。寛文5年(1665)、京都の生まれ。父三宅道悦(どうえつ)の影響で幼少から学問を好み、初め朱子学者浅見絅斎(あさみけいさい)に師事、のち陽明学に近づく。江戸、讃岐に滞在後、元禄13年(1701)頃、来坂。尼崎町二丁目で私塾を開く。享保9年(1724)、大坂市中の大火(いわゆる「妙知焼(みょうちやき)」)のため、平野に避難していたが、五同志らに迎えられ、懐徳堂初代学主に就任。官許の認可がおりた享保11年(1726)に行った記念講義の筆記録が『論孟首章講義』として残されている。初期懐徳堂の基礎を築いたが、諸学の良い点は何でも折衷して取り入りる学風は「鵺(ぬえ)学問」と称されることもあった。享保15年(1730)、66歳で没。なお、弟に水戸彰考館(しょうこうかん)総裁を務めた観瀾が、また、子に懐徳堂三代目学主を務めた春楼がいる。

中井甃庵(なかいしゅうあん)(生1693~没1758)

懐徳堂二代目学主。中井竹山・履軒兄弟の父。名は誠之(さねゆき)、通称は忠蔵(ちゅうぞう)・四郎。甃庵は号。諡(おくりな)は貽範(いはん)。元禄6年(1693)、播州龍野(ばんしゅうたつの)の生まれ。父は藩医中井玄端(げんたん)(1645~1720)。宝永3年(1706)、14歳の時、一家で大坂に移住。19歳の時、当時、尼崎町一丁目(現在の大阪市東区)に開塾していた三宅石庵に入門し、儒者の道を志した。享保11年(1726)の懐徳堂官許に際しては、かねて面識のあった江戸の三輪執斎の援助を得て官許の獲得に奔走した。官許を得た後、懐徳堂に移り住み、初代預り人、二代目学主を務めた。懐徳堂の官許に消極的だったとされる三宅石庵に対して、甃庵は対外折衝や実務能力の才を発揮し、懐徳堂の展開に貢献したと言える。
  なお、甃庵には学術的著作はほとんどないが、甃庵が実際の事件をもとに記した孝子伝である『五孝子伝』(1739)が注目される。それは、五人の子どもたちの「孝」を顕彰する内容で、以後の懐徳堂、および大坂町奉行による孝子顕彰運動の先駆と位置づけられる。

五井蘭洲(ごいらんしゅう)(生1697~没1762)

江戸中期の大坂の儒者。名は純禎(じゅんてい)、字は子祥(ししょう)、通称藤九郎(とうくろう)、号は蘭洲、冽庵(れつあん)、梅塢(ばいう)。五井持軒の三男。20歳の時に京都・古義堂の伊藤東涯に入門。享保11年(1726)の懐徳堂官許の後、中井甃庵に招かれて講師の一人となるが、同14年(1729)に江戸へ行く。江戸在住中に一時津軽藩に仕えたが、元文5年(1740)に病気を理由に離藩して大坂に戻る。以後、甃庵を補佐し、助教として懐徳堂の教育を支えた。その学問は、父・持軒同様、朱子学を主とし、特に江戸在住中に接した荻生徂徠の著作『論語徴(ろんごちょう)』に対しては厳しい批判を加えた。甃庵の子の竹山と履軒は、帰坂後の蘭洲から教育を受けた。江戸で蘭洲が著した徂徠批判の書は、蘭洲の没後、竹山・履軒の校訂を経て、天明4年(1784)に『非物篇(ひぶつへん)』と題して刊行された。

富永仲基(とみながなかもと)(生1715~没1746)

江戸中期の大坂の思想史家。字は子仲また仲子。号は謙斎(けんさい)、南関、藍関。通称・道明寺屋三郎兵衛(どうみょうじやさぶろべえ)。懐徳堂を創建した五同志の一人である道明寺屋吉左衛門(どうみょうじやきちざえもん)(富永芳春)の三男。弟の定堅(さだかた)(号は蘭皐(らんこう))とともに三宅石庵に学んだ。儒家思想を歴史的に批判した『説蔽』(せつへい)(亡佚)を若くして著した。そのために石庵に破門されたといわれるが、事実かどうかは不明。後に仏教研究に取り組み、その成果を『出定後語』(しゅつじょうこうご)にまとめた。また『翁の文』(おきなのふみ)を著し、日本においては神仏儒の三教とは別の「誠の道」を尊ぶべきと説いた。その学問は、思想の展開と歴史・言語・民俗との関連に注目した独創的なもので、後発の学説は必ず先発の学説よりもさかのぼってより古い時代に起源を求めるとする「加上説」(かじょうせつ)を中心とした。後に内藤湖南は、経典を相対化し、実証的にその歴史的生成過程を解明しようとした仲基の研究方法を、高く評価した。

中井竹山(なかいちくざん)(生1730~没1804)

懐徳堂四代目学主。中井甃庵の長男。名は積善(せきぜん)、字は子慶(しけい)、通称は善太(ぜんた)。号は竹山、同関子、渫翁、雪翁。諡は文桓、のち文恵。享保15年(1730)、懐徳堂内に生まれる。中井履軒の二歳上の兄。弟の履軒とともに五井蘭洲に師事して朱子学を学び、のち懐徳堂の黄金期を築いた。竹山は、父甃庵の亡き後、29歳で預り人に就任して三宅春楼を支え、また、春楼亡き後は、学主(教授)として懐徳堂の経営に務めた。
 懐徳堂の内部では、「安永七年(1778)六月定書」全八条を初めとする懐徳堂の諸規定を整備し、寛政4年(1792)の学舎再建に尽力するなど、懐徳堂の発展に努めた。また他方、安永3年(1744)、経世策をまとめた『社倉私議』を龍野藩に呈出し、天明8年(1788)の松平定信の来坂に際してその諮問に答え、それを『草茅危言』にまとめるなど、対外的にも活躍した。思想的には、朱子学を主体としつつ、陽明学をも排除することがなかったとされる。主著に、荻生徂徠の『論語徴』を論駁した『非徴』、日本史ブームの先駆けとも言える『逸史』、年少者向けに「人の道」を箇条書きにした『蒙養篇』などがある。また、竹山が知人や門人から問われた学問・政治・経済など種々の問題について答えた書簡を集めたものとして、『竹山先生国字牘(こくじとく)』がある。享和4年(1804)、75歳で没。

中井履軒(なかいりけん)(生1732~没1817)

中井甃庵の第二子。竹山の二歳下の弟。名は積徳(せきとく)、字は処叔(しょしゅく)、通称は徳二(とくじ)。履軒あるいは幽人(ゆうじん)と号した。諡は文清(ぶんせい)。享保17年(1732)、懐徳堂内で生まれ、兄竹山とともに五井蘭洲に朱子学を学んだ。竹山が懐徳堂学主として活躍したのに対し、履軒は後に懐徳堂を離れて私塾水哉館を開き、そこで膨大な経学研究を残した。初め履軒の経学研究は、既存のテキストの欄外に自説を書き加えることから始まり(『七経雕題(しちけいちょうだい)』)、それらはやがて整理され(『七経雕題略』)、最終的には『七経逢原(ほうげん)』として完成した。その研究は、脱神話、脱権威の批判的実証的精神に貫かれており、富永仲基・山片蟠桃らとともに近代的英知の先駆的存在であると評価できる。一方、履軒は自らの住まいを、中国古代の聖王黄帝が夢の中で遊んだというユートピア「華胥国」になぞらえ、自らを「華胥国王」と称して、経学研究とは異なる思いを多く書き記した。そうした著作として、経世面では『華胥国物語』『あらまほし』、科学面では『越俎弄筆』「天図」「方図」、歌文面では『華胥国歌合』などがある。文化14年(1817)、86歳で没。

山片蟠桃(やまがたばんとう)(生1748~没1821)

江戸中・後期の大坂の町人学者。本名は長谷川有躬。播磨国印南郡神爪(かづめ)村に生まれ、宝暦10年(1760)に升屋(ますや)別家(べっけ)(使用人がのれんわけを許され独立した家)の伯父・久兵衛の養子となり、升屋本家に奉公を始めた。本家の当主・平右衛門(山片重賢)は蟠桃を懐徳堂に通わせ、蟠桃は中井竹山と履軒とを生涯師と仰いだ。また麻田剛立(あさだごうりゅう)に天文学を習う。後に升屋本家の支配番頭として活躍し、大名貸(だいみょうがし)として成功、文化2年(1805)主家の親類並となり、山片芳秀と改名した。享和2年(1802)から晩年にかけて書いた主著『宰我(さいが)の償(つぐない)』(履軒の意見により『夢ノ代』(ゆめのしろ)と改題)において、実証的で合理的な思考に基づく独自の思想を論じた。その内容は、天文・地理・歴史・法律・経済など多方面に及ぶが、中でも徹底的な無鬼論が有名である。
  なお、蟠桃の業績にちなんで、日本文化の国際通用性を高めた優秀な著作とその著者を顕彰する「山片蟠桃賞」が設けられている。その1982~1991の十年間の受賞者については、大阪府生活文化部文化課『山片蟠桃賞の軌跡』(清文堂出版、1993)が紹介している。また、懐徳堂関係の業績としては、平成2年(1990)にテツオ・ナジタが受賞し、その邦訳が『懐徳堂 一八世紀日本の「徳」の諸相』(子安宣邦訳、岩波書店)として刊行された。

草間直方(くさまなおかた)(生1753~没1831)

江戸中・後期の大坂の町人学者。京都の枡屋唯右衛門(ますやただえもん)の子として生まれ、10歳の頃から両替商・鴻池家に奉公し、安永3年(1774)、鴻池家の別家(べっけ)(使用人がのれんわけを許され独立した家)・草間家の女婿となる。文化5年(1808)独立して今橋で両替屋を経営した。通称・鴻池伊助。商人として山片蟠桃と同時期に大坂で活躍し、また蟠桃と同じく、懐徳堂で中井竹山・履軒に学んだ。晩年隠居してから、我が国における最初の貨幣史である『三貨図彙』(さんかずい)全44冊を著し、古代から江戸時代に至るまでの貨幣の歴史を紹介するとともに、貨幣経済の発展について歴史的考察を加え、幕府による米価の統制を批判した。ほかに『草間伊助筆記』『鴻池新田開発事略』『茶器名物図彙』などを著した。

並河寒泉(なみかわかんせん)(生1797~没1879)

中井竹山の外孫。並河尚誠(しょうせい)に嫁した竹山の娘とじの子。懐徳堂最後の教授。名は朋来(ともき)あるいは鳳来(ほうらい)、字は享先(きょうせん)、通称は復一。寒泉は還暦以前の号、晩年「桜宮」に住み「樺翁」と号す。これは、従祖父である履軒の『左九羅帖(さくらじょう)』に、サクラの正しい表記が「樺」であるとする説に基づいたものである。
 17歳で伯父の中井碩果の門に入り、懐徳堂で教鞭を執った。一旦懐徳堂を離れたが、のち、碩果の死去に伴い、44歳の時に教授となった。懐徳堂の講義日程を遵守し、門人を武士役人層にまで広げ、大坂町奉行に懐徳堂の援助を願い出るなど、懐徳堂の経営・維持に努め、また文庫の建築、『逸史』の上梓などの事業を推進した。懐徳堂の諸生からは「大先生」、晩年には「老先生」と敬称されていた。
  しかし、幕末維新の動乱によって、明治2年(1869)、懐徳堂は終焉を迎えた。同年12月、寒泉は「百余り四十路四とせのふみの宿けふを限りと見かへりて出づ」の歌を門に貼り付けて学舎を去り、城北の本庄村に転居した。主著の『弁怪』は、懐徳堂学派の無鬼論とその実践的性格を知りうる重要な資料である。
  なお、寒泉の祖父並河誠所(1668~1738)は、伊藤仁斎の高弟で、懐徳堂開学の年には、三宅石庵の助教を務めた。また、寒泉の娘は、寒泉と同時期に預り人を務めた中井桐園に嫁いだ。また、蜑街(たんがい)(名は尚一、字は有勲)は寒泉の子で、懐徳堂の助教を務めたが、明治元年(1868)、20歳で没した。懐徳堂文庫には、「蜑街先生詩稿」「蜑街先生残稿」などの草稿が残されている。

中井桐園(なかいとうえん)(生1823~没1881)

中井柚園の子で、中井碩果の養子。中井履軒の孫に当たる。名は及泉(きゅうせん)、字は公混(こうこん)、幼名は幸太郎(いなたろう)。後、修治と改める。履軒没後の文政6年(1823)、水哉館で生まれる。中井碩果の死去に伴い、18歳で懐徳堂最後の預り人となったことから、水哉館は懐徳堂に合併される形となった。年少で懐徳堂の預り人に就任したため、並河寒泉の指導・教育を受けつつ懐徳堂の経営に参画した。温厚な性格であったが、門下生や子女に対しては厳格であった。その子中井木菟麻呂(なかいつぐまろ)は幼時の記憶として、「常に父の前に読書を授けらるることを畏れ、好みて外祖寒泉に就きたり」と語っている(『懐徳堂水哉館先哲遺事』)。また一方で蔵書・書画・家具什器類を売却するなどして、懐徳堂および並河・中井両家を財政面で支えたが、幕末維新の動乱に際し、『逸史』『詩律兆』『通語』『非物篇』『非徴』『瑣語』『質疑篇』などの版木を売却するまでに至った。
 懐徳堂の閉校後、明治6年(1873)までは本庄村において家塾を続けていたが、同年3月、大阪府の江南小学校の教師となり、老松町に転居。さらに江戸堀南通りに転居して、学校勤務のかたわら、好徳学院と称する私塾を開いた。後、学校を辞職し、もっぱら私塾に教授していたが、明治14年(1881)、59歳で没した。
TOPへ戻る