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記念会の歴史:用語解説

用語解説

大阪文化とともにある懐徳堂記念会の歴史を知るための6つの用語を解説します。(参考『懐徳堂事典』)

中井木菟麻呂(なかいつぐまろ)(生1855~没1943)

中井桐園の長男。中井履軒の曽孫に当たる。号は天生(てんせい)。安政2年(1855)、懐徳堂内で生まれ、14歳で懐徳堂の閉校を迎える。その後、中井家伝来の書籍などの保管、懐徳堂関係資料の蒐集、懐徳堂学舎の再建に努めた。重建懐徳堂が設立された後は、二度にわたって中井家伝来の懐徳堂関係資料を懐徳堂記念会に寄贈した。昭和7年(1932)には、資料を甲種遺物(旧懐徳堂書院の屏風・扁額など、書堂の付属物)、乙種遺物(中井甃庵・竹山・蕉園・碩果の遺書類など、中井氏一家の遺品)に大別した上で、甲種遺物47点を寄進し、昭和14年(1939)には、旧懐徳堂および水哉館の遺書遺物を寄贈した。前者については、『懐徳』11号に「懐徳堂遺物寄進の記」(中井木菟麻呂)の中に、また後者については、『懐徳』17号に「懐徳堂水哉館遺書遺物目録」(吉田鋭雄)中の315点として記録されている。現在、懐徳堂文庫所蔵資料で「天生寄進」の印記があるものがそれである。
 旧懐徳堂と重建懐徳堂とをともに知る人物として、また、旧懐徳堂や水哉館の遺書遺物の継承という点で極めて重要な役割を果たした。なお、木菟麻呂は、敬虔なロシア正教徒でもあり、ニコライ大主教を助けて聖書の翻訳に尽力した。昭和18年(1943)、89歳で没。

西村天囚(にしむらてんしゅう)(生1865~没1924)

重建懐徳堂の理事兼講師。鹿児島種子島出身。名は時彦(ときつね)、字は子駿、号は天囚・碩園(せきえん)。初め郷里の儒者前田豊山に学び、明治9年(1876)、11歳で藩校種子島学校に入学。のち東京で重野成斎・島田篁村に師事、明治16年(1883)、東京帝国大学古典講習科に入学。中退の後、大阪朝日新聞社に入り、明治43年(1910)、懐徳堂記念会を創設し、大阪朝日新聞に「懐徳堂研究」を連載して、その顕彰に努めた。その連載をまとめた『懐徳堂考』は、今日においても、懐徳堂研究の最も基本的な文献としての価値を持つ。
 大正5年(1916)、重建懐徳堂の竣工後は、広島高等師範から赴任した松山直蔵(まつやまなおぞう)専任教授とともに、懐徳堂理事・講師として尽力した。懐徳堂の復興・顕彰を通して天囚が目指したものは、商都大阪における文科大学の設置、宋学の復興による国民性の涵養であったとされる。主著に『日本宋学史』がある。また、晩年には『楚辞』『尚書』の研究と資料蒐集に努め、天囚の書斎は『楚辞』にちなんで「読騒廬(どくそうろ)」と名づけられた。現在、懐徳堂文庫漢籍の内でも『楚辞』関係資料は、「楚辞百種」と総称され、重要なコレクションの一つとなっている。さらに、天囚は文献善本の写本叢書を編集し、「小天地閣叢書(しょうてんちかくそうしょ)」としてまとめた。乾集・坤集の計143冊からなる同叢書には、「懐徳書院掲示」「履軒中井先生行状」「大阪府学五舎銘并序」「懐徳堂記録」『史記雕題』などの懐徳堂関係資料の他、広瀬淡窓『読論語』、猪飼敬所『論語標記』などの注釈書、「昌平黌書生寮姓名録」「浪華人物志」「鹿児島県人物伝備考」などの資料が収録されている。
 なお、『懐徳』2号は「碩園先生追悼録」という特集になっており、天囚関係の資料が、「碩園先生著述目録」「故碩園先生旧蔵楚辞類書目」としてまとめられている。

重建懐徳堂(ちょうけんかいとくどう)

大正2年(1913)に設立された財団法人懐徳堂記念会が、大正5年(1916)に東区豊後町(現・中央区本町橋)に建てた学舎のこと。敷地は、府立大阪博物場西北隅にあたる361坪が無償で貸与された。講堂では、昭和20年(1945)三月の大阪大空襲によって焼失(書庫を除く)するまで、大阪市民のための授業が行われた。授業には、中国の古典と日本の古典とを中心にした講義(平日の夕刻と日曜の午後の一週5回)、人文科学の高度な内容の定期講演(毎週土曜日)、一般教養的な通俗講演(月に1~2回)、年少者を対象とする素読(そどく)科などがあった。
 職員は、講義を担当する常任の教授一名、助教授・講師(常任・臨時)・書記・司書若干名からなり、教授として松山直蔵(まつやまなおぞう)、財津愛象(ざいづあいぞう)、吉田鋭雄(よしだはやお)、講師(常任)として吉沢義則、林森太郎、武内義雄、稲束猛、秋月胤継、岡山源六、阪倉篤太郎、大江文城、張源祥などが教壇に立った。また講演には顧問の内藤湖南(ないとうこなん)、狩野直喜(かのなおき)の他、京都帝国大学や第三高等学校の教授を中心に、学外から多くの講師が招かれた。
 重建懐徳堂の事業運営費は、ほとんどが財団の基本財産と寄付とで賄われており、講演は無料、講義も低額の堂費(月額20銭から2円)で受講できたため、多数の市民が来聴し、大阪の文科大学・市民大学の役割を果たした。
 なお、コンクリート造りの書庫に収められていて戦災を免れた重建懐徳堂の蔵書約三万六千点は、昭和24年(1949)、懐徳堂記念会から一括して大阪大学に寄贈された。その図書目録として『懐徳堂文庫図書目録』(大阪大学文学部、昭和51年)がある。

財団法人懐徳堂記念会(ざいだんほうじんかいとくどうきねんかい) ※平成26年一般財団法人へ移行

懐徳堂の学術文化活動を継承顕彰すべく設立された団体。明治2年(1869)に閉校した旧懐徳堂を復興しようという気運が高まった明治43年(1910)、西村天囚らの呼びかけで設立された。翌年には、中之島公会堂において、懐徳堂の儒者たちを顕彰する記念式典を挙行し、懐徳堂貴重書の復刻刊行を行うなど、懐徳堂の復興と顕彰に努めた。
 会の発起人には、高崎親章(大阪府知事)、土居通夫(大阪商業会議所会頭)、植村俊平(大阪市長)、小山健三(第三十四銀行頭取)、島村久(鴻池銀行理事)、鴻池善右衛門(鴻池銀行社主)、藤田平太郎(藤田組主)、住友吉左衛門(住友銀行社主)、鈴木馬左也(住友総理事)、上野理一(朝日新聞社主)、本山彦一(毎日新聞社主)、今井貫一(大阪府立図書館長)など、大阪の政治・経済・文化を代表する人物が名を連ね、全国から特別会員622名、普通会員1370名が加入した。
 大正2年(1913)年8月、財団法人の認可を受け、永田仁助・西村天囚・今井貫一・水落庄兵衛・広岡恵三の五名を理事、永田仁助(浪速銀行頭取)を理事長として法人登記を行った。大正5年(1916)の懐徳堂校舎再建の後は、専任の教授や学外の講師による講義と講演を市民に開放し、大阪の文科大学、市民大学としての務めを果たした。戦後は、戦災を免れた懐徳堂蔵書を一括して大阪大学に寄贈し、以後、大阪大学文学部との提携のもと、春秋記念講座、古典講座、学術雑誌『懐徳』の刊行、懐徳堂文庫復刻叢書や懐徳堂ライブラリーの出版など、各種事業を展開して今日に至っている。

懐徳(かいとく)

財団法人懐徳堂記念会が編集・発行する機関誌。大正13年(1924)創刊、昭和16年(1941)から昭和23年まで一時休刊したが、年1回刊、最新号は第70号(2002年)。懐徳堂関係を主とした漢文学、日本文学などに関する学術論文、随想など数本の他、懐徳堂記念会が主催する「懐徳堂講座」の講演要旨や、「資料報告」「懐徳堂関係研究文献提要」などから成り、懐徳堂関係論著や記念会の足跡についての貴重な資料集となっている。当初は、懐徳堂堂友会の編集によっていたが、戦後は、阪大文学部内の運営委員会により編集が行われている。第55号(1986年)に第50号までの総目次が掲載されている。

懐徳堂文庫(かいとくどうぶんこ)

旧懐徳堂所蔵書籍を中心とする文庫。大正時代に再建された重建懐徳堂は、昭和20年の大阪大空襲により消失したが、コンクリート造りの書庫に収められていた蔵書約三万六千点は、戦災を免れ、昭和24年(1949)、懐徳堂記念会から一括して大阪大学に寄贈された。大阪大学ではこれらを一括して「懐徳堂文庫」と命名し、文学部が中心となって資料整理に当たった。その成果は『懐徳堂文庫図書目録』(大阪大学文学部、昭和51年)として刊行されている。
 本目録に収載されるのは、懐徳堂記念会所蔵・蒐集図書(旧懐徳堂先賢著述・蔵書・関係子記録、重建懐徳堂期の蒐集に係る研究用漢籍・和刻本・朝鮮本など約三万六千冊)の他、北山文庫(ほくざんぶんこ)(重建懐徳堂最後の教授吉田鋭雄(号は北山)旧蔵漢籍約四千四百冊)、木間瀬(きませ)文庫(懐徳堂記念会元理事木間瀬策三旧蔵書幅56点)、岡田文庫(岡田伊左衛門旧蔵詩文関係和漢書約六千冊)である。
 なお、目録には収録されていないが、懐徳堂文庫にはさらに、新田文庫・中井家文書(懐徳堂最後の学問所預り人中井桐園の孫・新田和子氏所蔵和漢書・掛け軸・器物類約560点)、並河寒泉文庫(懐徳堂最後の学主並河寒泉の著述および旧蔵書約155点)、逆瀬文庫(逆瀬家旧蔵書幅・短冊・扇面52点)、吉永文庫(経済法科大学教授吉永孝雄氏旧蔵巻子・帖など90点、近世文人・幕末維新の著名人の書簡など約四百通)、戦後の懐徳堂記念会・友の会蒐集品などがあり、これらの総計は約四万七千点にのぼる。
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